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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第3節 秦鏡 [5]




 正体のわからない者が襖一枚(へだ)てた隣にいるのかと思うと、あれこれと混乱した。
 追い出すことも考えたが力では敵わないだろうし、たぶん口で言っても無理だろう。

 帰り道に背後から襲われた感触が蘇る。
 ひょっとしたら、自分は山脇に殺されるかもしれない。

 そんな突飛とも思える考えまで浮かんでくる。

 なのに……… なぜなのだろう?
 なぜなのだ?

 気がつくと、自分は微睡(まどろ)んでいる。
 ふわふわと揺れる眠りの中に、落ちている。
 緊張感が、無さ過ぎる。

 信じてはいけないと思いながら、心の奥底では信用してしまっているのか?
 山脇の言葉を…… あの言葉を、信じてしまっているのか?
 あんな言葉一つで、自分は簡単に人を信用してしまっているのか?
 自分は、それほどまでにフシダラな人間なのか?

 そうだ。好きだとか恋しいなんて言葉は、自堕落(じだらく)な言葉だ。そういう人間の使う言葉だ。自分は、そんな人間ではない。
 昔の自分のような、愚かな………

 それなのに、油断すると睡魔が襲う。

 眠い……
 寝てしまいたい……

 一晩中、見えない魔物と戦った。



 母が帰ってきたのは明け方だった。
 登校するまでにはまだ時間があったが、どうやら山脇は自宅へ帰る気はないらしい。母も帰す気がないらしい。隣で二人の話す声が聞こえた。
 やがて窓の外から可愛らしい囀りが聞こえてきて、薄いカーテンを光が透かし始める。
 時計を見て時間を確認し、仕方なく起き上がり制服に着替えた。今日は濡れタオルがなかったのでそのまま居間へ出て行くと、山脇を無視して洗面所へ向かった。そうして、そのまま居間へ戻らずに家を出た。

「大迫さん」

 アパートの階段を下りたところで上から声がした。

「待ってっ」

 階段を駆け下りる音。

 無視して駆け出そうか?

 だが、走ったところで相手も追ってくるだろう。
 美鶴は足が速いワケではない。山脇がどうかは知らないが、足の長さを考えると、追いつかれるのは目に見えている。
 仕方なく足は止めるが、背を向けたまま振り向きはしない。
 冷ややかに向けられた背中に向かって、声がかけられる。

「昨日はごめん」

 声の感じからして、美鶴とは少し距離を空けているようだ。

「もうあんなことはしない」

 途端に山脇の温もりが全身を包む。顔の筋肉が緊張し、笑いたいのとも泣きたいのとも、怒りたいのとも違う、不思議な感情に歪んだ。
 歪むのを、抑えられない。

「だから…… 僕のそばから離れないで。せめて、君が危険に晒されていないとわかるまでは」

 目の下から頬にかけて熱くなるのを感じる。
 テレビの中から聞こえてきそうな台詞。今まで言われたこともない。口に出して言うヤツが現実にいるなんて思わなかった。

 なんて気障(きざわ)りなヤツっ!

「どうやったらわかるの? いつになったらわかるの?」

 背を向けたまま刺々しく尋ねる。

「これを、警察に届けようと思う」

 振り返らなかったが、『これ』の示すものがなんであるかはわかった。

「あと、襲われたことも話すんだ。警察がどこまで興味を示してくれるかわからないけど、やっぱり放っておくのはよくない」
「まだ持ってたの? コンビニのゴミ箱にでも捨てるんじゃなかったの?」

 責めるような美鶴の言葉に、山脇は答えなかった。

 意地悪な言葉だ。
 それは美鶴にもわかっている。わかっていて言っている。今の美鶴の口からは、こんな言葉しか出てこない。

「警察に行ったら厄介なことになると言ったのはアンタでしょ?」
「僕は間違ってたと思う。君が襲われるとは思わなかった。僕の責任だ。今日の放課後に一緒に行こう」
「今さら?」
「本当は… 昨日のうちに行くべきだったのかもしれない」

 その言葉は苦しそうだ。だが、それも演技かもしれない。
 山脇の狙いがどこにあるのかがわからない。わからないうちは、ヘタに相手を慌てさせたりしない方が良いのでは?

 それが、一晩考えた美鶴の結論だった。

「好きにすれば」

 そうとだけ告げて歩き出す。山脇の駆け寄る足音が聞こえて、やがてその気配が隣に並んだ。見上げると、嬉しそうな笑顔がそこにはあった。
 腹黒さなど微塵も感じさせないそのまっすぐな笑顔に、美鶴は思わず視線を背けた。

 騙されるな

 必死に自分に言い聞かせる。胸中の動揺を悟られまいと、(つと)めて平静を装う。

「それはそうと、アンタって、二晩も家に帰らなくって大丈夫なの? よく親はなんにも言わないわね」
「僕は一人暮らしなんだ」
「へぇ、親は?」
「母さんは死んだ。中二の時にね。父さんはアメリカにいる」

 それ以上は語らなかった。語るつもりもないようだ。
 美鶴もそれ以上は聞かなかった。聞いてはいけないことだと思った。
 世の中にはいろんな人がいる。美鶴も片親だ。離婚した親に苛立ちを感じることはあるが、こだわっているつもりはないし、意味もなく口にしたいとも思わない。口にしたところで、今の状況が変わるワケではない。

 共に適当な話題を見つけることができず、しばらく黙ったまま並んで歩いた。
 ぼんやりと空を仰ぐ。昨日と違って、ちょっと薄曇り。

 降るのかな?

 天気予報を見てこなかったのでそれはわからない。だが、山脇に聞こうとは思わない。
 たとえ午後から降ると言われたところで、いまさら傘を取りに引き返すつもりなどないのだから。
 やがて昨日と同じように、二人の周囲には高校生が集まりだした。昨日と違って聡がいないという状況は、彼らや彼女らに新たな衝撃を与えたようだ。

「やだぁ〜、今日は二人っきりだよぉ」

 また厄介な誤解をさせてしまっている。
 うんざりとため息をつく。それを見て、山脇は苦笑した。

「僕が適当に説明しておくよ」
「適当?」
「君に危害が加わらないように、省くところは省いて、飾るところは飾って……ね」
「是非ともそうしてもらいたいものだわ」

 冷たく返してくる美鶴に肩を(すく)める。そうしてボソリと付け加えた。

「そこまで嫌がられると、正直ショックだな」

 冷たさに鋭さが加わった美鶴の視線を、山脇は優しく、そっと避けた。







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